中学生のときユーゴスラビア人(←当時)のペンフレンドがいて、しょっちゅう文通をしていました。彼女からの手紙がいつも楽しみで、遠くはなれていても、昔から知っている友達ような気分もしていました。そんなにしょっちゅう手紙をやりとりしていたのですが、高校生になり、私はメキシコに行って当地の生活に夢中&精一杯だったころ、彼女から手紙が届きました。「国が大変なことになりました。国にいては危険なので、イギリスに避難します」とありました。そうです、丁度ユーゴ内戦になってしまっていたのでした。(写真はSisakの町中の遺跡)
その後私も彼女に手紙をかいてもちゃんと届くんだろうか?という思いになってしまい、お互いに音信不通になっていたのだが、彼女がイギリスから戻った時、また手紙をくれました。「国に戻りました。でも、いままでは、ユーゴスラビアと手紙にかいてもらっていたけど、これから私宛に住所を書く時はクロアチアと書いてください。」と書いてあったのを覚えている。その手紙に書かれた彼女の自分の住所のCROATIAという文字が、ボールペンで、大きく力強くあまりにも念を入れて書かれているような感じが伝わって、一体彼女に何があったのだろうと不安な気持ちになりながらも、自分の海外生活に精一杯で、当時はユーゴ情勢があまりにも遠く感じてしまっていました。(写真はザグレブの中心部)
その後、長い年月が流れ、お互いに音信不通になりつつあったのですが、今回中欧に行くことを決めて、思い切って13年ぶりぐらいに彼女に手紙を書いてみたのです。CROATIAとかかれた手紙がみつからなかったので、だめもとで、ユーゴスラビアの時の住所の国名をクロアチアとだけ変えて出してみました。まぁ、もう彼女も30過ぎだし、人生変わっているだろうし、こんな昔の住所にだしても届かないだろうなと、どっちかというと思ってはいたのですが。
しかし日本を発つ2日前に、私が書いた手紙のメールアドレスをみて、彼女がメールをくれたんです。どうやら手紙は無事に彼女のご両親のお家にとどいたようで、お母さんが今の家にとどけてくれたんだそう。ご両親のお家からそう離れていないところに今も近所の人と結婚して住んでいた彼女。子供も2人いて新しい家族ができていたけど、是非、会いたいからうちに来てほしい、とのこと。
というわけで、彼女のうちですっかりお世話になってしまいました。彼女のお姉さんの旦那さんの誕生日パーティーや、ご両親の家にもおじゃましたり、もりだくさんの楽しい家族生活を見せてもらいました。彼女のうちはSisakという街なのですが、サラエボまでいっしょに遊びに行ってくれたり・・・。写真は、ちょうどクリスマスから4週間前の日曜日だったので、4本のろうそくの1本目に火をつける日でした。子供がつけたがっていたのですけど、結局火が怖かったみたい。
お家でも、ご家族の家でもいろいろごちそうになったのですが、写真を撮らなかったのでレストランのみ。ザグレブの中心部の老舗に連れて行っていただきました。
これがクロアチアの伝統料理だよ!といって出してもらったのですが、あまりにも肉肉肉肉・・・で、しかも味付けがとてもしょっぱく、どうがんばってもちょっとしか食べられませんでした。自分の国の伝統料理で、自分たちがおいしい料理だと信じてすごくもてなしてくれているのに私が食べないというのはとてもがっかりしたと思うので、本当に申し訳なくて申し訳なくてたまらなかったのです。ある一線を越えたら意識を失いそうなところまではいただきました。あんまり進まない私にちょっとがっかりした友達の顔がつらかったです。ごめんね。
クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境のボスニア側でも銃根の残る家々を見ましたが、こちら、クロアチア側にもまだまだありました。私のこの友達の家もガレージにぼっかり穴があいていたり。5件先の家は上からの爆弾でこっぱみじんになって一家3人即死だったとか。今は家が粉々になったままでした。戦争はお互い傷つけ合うだけですね。
これは、なんかの「根」らしいんですが、子供が咳き込んだときに、これをくりぬいてそこにはちみつをいれ、そのはちみつにこの根のエキスがしみ出た頃、はちみつをすくって子供にのませていました。この辺の他の国でもそうなのかなぁ。
PR